「プリンストンに滞在して」
電気通信大学「学園だより」170号(1999年)掲載

 筆者は、1997 年8月から翌年9月までの13ヵ月間、米国ニュージャージー州
プリンストンに滞在した。受入先はプリンストン大学電気工学科である。プリンスト
ン大学は東部アイヴィリーグの名門校であり、教育・研究レベルとともに授業料の高
さでも有名である。当然、学生の多くは金持ちの子弟であり、また必然的に裕福な同
窓生に恵まれ、多くの施設が彼等の寄付によって賄われている。特に印象的だったの
はキャンパス内の美術館である。そこには古今東西の第一級の美術品および学術的価
値の高い考古学資料が所狭しと展示されている。日本の美術館の常設展示でこれに匹
敵するものがどれくらいあるかと考えると、いささか情けない気持ちにもなった。大
学は劇場も持っており、演目には一流のアーティストの名が並ぶ。また、キャンパス
内でも様々なレベルのコンサートが日常的に催されており、学生や教職員関係者はも
とより、近隣の住民にとっても気軽な娯楽の場、社交の場となっている。

 プリンストン大学は各方面で一流の人材を集めており、筆者がお世話になった電気
工学科も中々のものではあるが、何といっても有名なのが数学科である。かのフェル
マー予想を最終的に解決した Andrew Wiles もここの教授である。(Wiles が予想の
証明を思い立ってから7年間こもった屋根裏部屋というのを一目見たいと思い、名簿
で番地を調べて行ってみたのだが、その界隈の家々には番地も表札もなく、しかもほ
とんどの家に屋根裏部屋があった。仕方なくそのうちの一つを勝手に Wiles の部屋だ
と思うことにした。)近くには、かつてアインシュタインやゲーデルなどもいたプリ
ンストン高等研究所(大学とは別組織)もあり、数学・数理物理にとっては聖地のよ
うな存在である。高等研にもセミナーを聴きに何度か行った。人里離れたところにポ
ツンと存在しており、とにかく静か。一説によると、世界中から功なり名遂げた人を
高給で集めてくるのだが、講義の義務もなく、あまりにも好条件のため、かえって生
産的な仕事ができなくなってしまうとのことである。それが本当だとすると、学者に
とっては文字どおりの「天国」ということになるが、真偽のほどはともかく、なるほ
どそんなものかもしれないと思わせる雰囲気がある。いずれにせよ、1〜2年滞在し
て研究に没頭するには最高の環境であろう。

 電気工学科に部屋は与えられていたが、筆者にとっての本当の研究室は(日本と同
様に)自宅と散歩と喫茶店であった。自宅は大学近くのアパート(大学の施設)で、
林と人工湖に囲まれた静かな一角にある。周辺にはリス、野兎、鹿、グラウンドホッ
グ(もぐらを大きくしたような哺乳類)、そしてカナディアンギースという大型の水
鳥など、動物たちがいっぱいで、散歩していると実に楽しい。ただし湖畔の芝生は、
春になると数えきれないほどのギース達がたえず草を食み、その糞が辺り一帯を覆っ
てしまうため、散歩のコースから外さざるを得なくなってしまったが。このギース達
はある種の社会行動をしており、その生態は興味が尽きない。一度、百羽以上のギー
スが一匹の猫を包囲して、じわじわと湖の水際に追い詰めていくという恐ろしい光景
を目撃してしまった。猫はほとんどパニック状態だったが、間一髪のところで包囲を
脱して逃げ去っていった。

 アパートは大学のキャンパスにほぼ隣接している。キャンパスの大きさは米国の大
学の中ではむしろこじんまりとした方であるが、それでも電気工学科のある建物まで
は徒歩で30分ほどかかる。途中には美術館や荘厳で静かなチャペル、気持ちのいい
ベンチ、と考え事をするのにうってつけの場所が多々あり、中々研究室まではたどり
着けない(これも日本での生活と同じ?)。キャンパス内にもリスがいるのだが、普
通のリスにまじって、全身真っ黒の種類をよく見かける。土地の人の話では、この種
類はプリンストン大学周辺にしかいない、大学の生物学の研究室から逃げ出した
ミュータントだという噂もある、ということになるのだが、西海岸でも黒いリスを見
かけたのでこれは眉唾。ただし、そこも某大学のキャンパス内ではあったが・・・。

 喫茶店には随分お世話になった。大学近くの small world coffee はいつも学生達で
賑わっている。店内には趣味のよいジャズが流れ、壁はモダンアートで飾られてい
る。一度、店内で見知らぬかわいい女の子に Hi! と声をかけられ、人違いかと思った
のだが、よく見ると、前の日、高等研で量子計算に関するアグレッシブな講演をして
いたポスドクの研究者だった。この店はプリンストン界隈では珍しくしゃれた雰囲気
を持った店で、New York Times もただで読めるし、悪くはないのだが、研究に集中
するには少々活気がありすぎた。様々な試行錯誤の末、自宅から車で10分くらいの
距離にあるショッピングモール内の大きな書店内にあるスターバックスを主に利用す
るようになった。アメリカの多くの本屋はその一角にカフェがついているが、この店
の場合は、本屋のどまん中に一段高くなっている円形のスペースがあり、その中心に
カウンター、それを取り囲むようにテーブルが配置されている。カフェ・ラテ(本場
のアメリカンコーヒーは全く趣味に合わなかった)と、ときにはケーキかクッキーも
注文し、テーブルに運ぶ。ゆったりとした空間。静けさと適度な賑わい。店内には音
楽もアナウンスも一切流れていない。周りを見渡すと、のんびり本を読んでいるおば
さん、ノート型パソコンを持ち込んで何やら懸命に作業している学生、チェスクロッ
クを使いながら無言でチェスに興じる中年二人組、などなど、何となく「同類」とい
う感じの人々がどっかと腰をすえていて、こちらも安心して仕事に集中できる。疲れ
を感じたら、目を閉じて店内のざわめきに身を委ねる。英語の会話の断片は純粋なノ
イズとして作用し、頭脳の緊張を解きほぐして心地よく居眠りへと誘ってくれる。至
福のひとときである。


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